【エチオピア】G7とEU、ティグレ州の人権侵害を深く憂慮。エリトリア軍は撤退開始
G7各国の外相とEU欧外務・安全保障政策上級代表は4月2日、エチオピア北部ティグレ州で発生している内戦と人権侵害に深く憂慮し、関連して隣国からエチオピア領内に展開していたエリトリア軍に対し、即刻無条件の撤退を求める声明を発表した。
エチオピアでは、かつては、エチオピア帝国時代からの政治的支配民族であるアムハラ人と、最大人口を誇るオモロ人の対立が続いていた。アムハラ人は、1974年に社会主義勢力が、エチオピア革命を起こし、同じくアムハラ人の皇帝ハイレ・セラシエ1世を廃位した後、殺害。その後、1991年までアムハラ人の社会主義勢力が軍事政権を敷いていた。
一方、1988年には、社会主義軍事政権に異を唱えるアムハラ人、オロモ人、ティグレ人、南エチオピア人の政治勢力が、ティグレ人民解放戦線(TPLF)を中心とするエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を発足。1991年2月からEPRDFの反政府勢力は政府を軍事攻撃し、5月にはメンギスツ大統領がジンバブエに亡命。EPRDFが首都アディスアベバを制圧し、ティグレ人の政権が誕生した。
隣国のエリトリアは、1993年にエチオピアから独立したが、1961年から1991年までエチオピアとの独立戦争を勃発。EPRDFが1991年に政権を奪ったことでエリトリアは独立する形となったが、その後、エチオピアにとって物流の生命線となるエリトリアとの港湾使用料等を巡りすぐに関係が悪化し、1998年から2000年までエチオピア・エリトリア国境紛争が発生した。その結果、大量の難民が生まれ、国連も仲介を開始。紛争は最終的にアフリカ統一機構の仲裁により2000年に停戦するも、その後も両国の関係は悪化したままだった。
その中で、エチオピアとエリトリアの国交正常化を実現させたのが、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を構成していたオロモ人側の組織「オロモ人民民主機構(ODP)」から初の首相として誕生したアフメド・アビー氏だった。EPRDFは、オロモ人民民主機構、アムハラ民族民主運動、ティグレ人民解放戦線、南エチオピア人民民主運動で構成。ティグレ人の首相が辞意を表明し、次期首相として初めて最大人口のオロモ人から首相が出る形となった。アビー氏は、エリトリアとの紛争を解決させた功で、2019年にノーベル平和賞を受賞した。しかし、アビー氏は、エチオピア人民革命民主戦線の後身として「繁栄党」を結成したが、ティグレ人民解放戦線のみが離脱していた。
エチオピア国軍は2020年11月に、政権の座を失ったティグレ人が多数を占める北部のティグレ州との間で交戦状態に入る。ティグレ側が国軍を攻撃したと言われている。ティグレ州政府の与党・ティグレ人民解放戦線(TPLF)は、以前から国境を接するエリトリアとの関係が悪く、エリトリア軍は、エチオピア国軍に協力する形で、ティグレ州に侵攻していた。エリトリア政府は侵攻を否定しているが、エチオピア政府は認めている。ティグレ紛争では、あらゆる勢力が人権侵害やジェノサイド(民族浄化)に加担しているとみられている。
11月の交戦以降、ティグレ州では、虐殺や性暴力被害の訴えが相次いでおり、今回G7とEUが連携して声明を発表した形。エチオピア人権委員会(EHRC)と国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、全政党が関与しているとみられる人権侵害に関し独立合同調査を行うことも決定しており、今回G7声明でもこの動きを歓迎した。
4月3日には、エチオピア外務省は声明を発表し、ティグレ州に侵入していたエリトリア軍が「撤収を開始した」と発表している。
【参照ページ】G7 Foreign Ministers’ Statement on the Situation in Tigray, Ethiopia